【17日目】優柔不断になれという意味ではない話

無職日記

また…

あの! また就活落ちましたけど!! 5日前にやった面接のところからお祈りの手紙が来ました! 結構狙ってたのに! ・・・まぁそうだよなー、って感じでもありますけどね。退職理由のところあんまり上手く言えなかったなー、とか、自己PRのところもっと応募先に関係あること喋ればよかったなー、とか、そもそも書類上のスペックが弱いし(高卒、資格なし、免許なし、職歴が物流だけ)なー、とか、いろいろ思い当たる節はあるのですが、そんなことを考えていて気分が落ちるようではいけないですね。個々の考えられうる要因への対策はやればいいですが、ある程度以上は考えても仕方ありません。どのみち結果をコントロールすることはできないからです。すべての可能性は仮説でしかなく、本当のところがどうだったのか、こちら側からは見えません。極論、私が上記に挙げた要素すべてが100点でも必ず受かるとは限らないのです。例えば、もうコネ入社予定の人がいる出来レースだったりすることもあるしさ。いやそれはないか。負け惜しみみたいだからやめよ。まぁ、結果を100%コントロールすることはできない、ということの一例としてね。

判断しないことにした

『反応しない練習』(草薙龍瞬 著)という本を読んでから、『わからないことについて、判断をしない』ということが、最近の私のテーマとなっています。「良い・悪い」「好き・嫌い」「優れている・劣っている」「意味がある・ない」「成功である・失敗である」「正しい・間違っている」…、私たちは一日に無数の判断を下していて、しかしそんなふうに『判断しすぎる』ことが、私たちの苦しみの原因にもなっているということが書かれています。

私の至らぬところを話しますが、私はSNSをやっていると、自分と意見の違う人や、ネガティブなだけの投稿をする人に対して「この人は間違っている」「何のためにこんな悪い影響しかない投稿をするのか」「不快だ」などと、憤りのたぐいの感情を、よく持ってしまいます。憤り・怒りは自らを焼き、それでいて、何も生み出しません。特に、SNSに対して憤るなんて無益どころの話じゃない。何を馬鹿なことやっているんだ私は。今すぐ辞めろ。

と、ここまでだけでも、「間違っている」「悪い影響しかない」「不快だ」そして「無益」「馬鹿なこと」「辞めろ」と、いくつもの『勝手な判断』の末に、ついには自責するところまで行っています。えー。

しかもその『判断』は大抵正しくない、ときてます。ほんとに何やってんだ。

 

 

私たちの『判断』は、正しくない

スティーブン・コヴィーの『7つの習慣』という本(世界最強の自己啓発本)の中に、こんなエピソードが書かれていたのが私の印象に残っています。

 客は皆黙って座っていた。新聞を読む人、物思いにふける人、目を閉じて休んでいる人。車内は静かで平和そのものだった。そこに突然、1人の男性が子どもたちを連れて乗り込んできた。子どもたちは大声で騒ぎ出し、車内の平穏は一瞬にして破れた。男性は私の隣に座り、目を閉じていた。この状況にまったく気づいていないようだ。子どもたちは大声で言い争い、物を投げ、あげくに乗客の新聞まで奪いとるありさまだ。迷惑この上ない子どもたちの振る舞いに、男性は何もしようとしない。

 私は苛立ちを抑えようにも抑えられなかった。自分の子どもたちの傍若無人ぶりを放っておき、親としてなんの責任も取ろうとしない彼の態度が信じられなかった。他の乗客たちもイライラしているようだった。私は精一杯穏やかに「お子さんたちが皆さんの迷惑になっていますよ。少しおとなしくさせていただけませんか」と忠告した。

 男性は目を開け、子どもたちの様子に初めて気づいたかのような表情を、浮かべ、そして、言った。「ああ、そうですね。どうにかしないといけませんね・・・病院の帰りなんです。一時間ほど前、あの子たちの親が亡くなって・・・これからどうしたらいいのか・・・あの子たちも動揺しているんでしょう・・・」

 その瞬間の私の気持ちを想像できるだろうか。私のパラダイムシフトは一瞬にしてシフトした。突然、子どもたちの様子がまったく違って見えたのだ。違って見えたから、考えも、感情も、行動も変化した。私の苛立ちは消えてなくなり、態度や行動を無理に抑える必要はなくなった。私は男性の苦しみに共感して、同情と哀れみの感情が止めどなくあふれ出た。「奥様が亡くなられたとは・・・お気の毒に。さしつかえなければ話していただけませんか?何か私にできることはありませんか?」すべてが一瞬にして変わったのである。

出典:スティーブン・R・コヴィー. 完訳 7つの習慣 人格主義の回復: Powerful Lessons in Personal Change. キングベアー出版. Kindle 版.

長かったけどお読みいただけたでしょうか?

まとめると、
「電車内で無法の限りを尽くして暴れまわる躾のなっていない子供たちと、それを注意しようともしない無関心で無責任な父親」に見えていた親子が、実は「つい一時間前に母親を亡くしたショックで気が動転している子供たちと、呆然自失状態の父親」だったというお話でした。

外側から見えている事象は変わりません。しかし、この著者でなくとも「つい一時間前に母親を亡くした」という事情を聞いた後は、事情を聞く前の「ただ傍若無人な親子」という印象が、真実に近いものだとはとても思えなくなるのではないでしょうか。

このように、物事は大抵、一面的な見方で正しい判断を下すなんてことはできないのです。

もう一つ引用したい

『反応しない練習』の方にも面白い話が載っていました。すみませんがまた引用します。

 ある都市の王が、宮殿に生まれつき盲目の人たちを集めて、象を触らせました。ひとりには象の鼻を、ひとりには象の足を、ひとりには象のしっぽをと、象の一部だけを触らせて、「では、象とはどんなものか言ってみよ」と命じたのです。

 するとひとりは、「すき長柄ながえのようなものです」と答え、ひとりは「石柱のようなものです」と答え、ひとりは「ほうきのようなものです」と答えました。ほかの部分を触った盲人たちも、めいめいに「象とはこんなものだ」と主張して、「お前は間違っている!」と、殴り合いのケンカを始めました。その光景を見て、王は大笑いしました。

出典:草薙龍瞬. 反応しない練習 あらゆる悩みが消えていくブッダの超・合理的な「考え方」. KADOKAWA / 中経出版. Kindle 版.

おい、王・・・。

まぁでもこれも、私たちの『判断』というのはおおむねこんな感じだよ。ということを示唆するエピソードです。石柱のようなところもホウキのようなところも犂みたいな形の部分も全部『象』なのですが、盲人たちは自分が感知できたところだけを『象』だと主張し、他の奴は「間違っている!」と言っていたわけです。

私たちも、常にこんなようなことをやっていると思います。自分から見えた側面だけを材料に、『これが正しい』『そっちは間違っている』『良くない』などと思ってしまいがちですが、それは正しくもなく(正しかったとしてもたまたまにすぎない)、有益でもないことです。

他人の判断も正しくはない

あともう一つだけ言いたいことがあります。

それは、逆に誰かがあなたに対して行う否定的な判断を真に受けないようにしてほしい、ということです。肯定ならOKです真に受けちゃいましょう。

例えば「何ひとつまともにできないな」とか、「そんなんじゃこの会社以外じゃ通用しないよ」とか、そんなの少しも真実ではありません。「何ひとつ」とか「何も」とか「〇〇以外では」なんて、逆に一面的な物の見方をしないと出てこない言葉だと思います。見識が狭い人ほど、そういう言い草をしてきますよね。

といっても、私たちの目は前方にしかついていないので、一面的な見方しかできないこと自体は自然であり普通のことですが、それを弁えた行動をするべきかなと思います。だから、要は『誰かを否定する判断』は正しいものになりづらいよ。どうしても行うなら、慎重に。ということだと思います。この場合の”誰か”は、他者も自分自身もです。

『反応しない練習』には、そういう外部からの声に“反応しない”ということについても書かれています。反応しないということが身に着けられたら、ものすごく役立つスキルになると思います。めちゃめちゃ良い本です。

あと『7つの習慣』も。泣く子も黙る世界最強の自己啓発。

もちろん、『良い本』であるとか『世界最強』とかいうのも私の判断に過ぎないのですがね。

コメント

  1. インスタからのファン より:

    判断しないことですか。共感しました。考えることが好きで結構あたっていると、色んな人や事柄によく独りよがりの評価をします。
    よくよく考えてみると、判断が早かった、または屁理屈だったと後悔します。
    投稿にある7つの習慣の子供の話、その通りですね。
    ためになりました。考えさせられ感謝です!

    • ユースケ ユースケ より:

      ありがとうございます!
      気付いた、ということが重要ですね。
      後悔というのは「あれは失敗だった」と気付くことだと思います。
      その認識がなければ、次からの行動を改めることもできないのです。
      何がその人にとっての『失敗』なのかも、その人次第なのですけどね。

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