【15日目】無益なだけでなく有害

Uncategorized

私はASD(自閉スペクトラム症)という発達障害を持っていて、医師から「言葉の裏の意味をあまり理解できない」という診断を下されている。そのせいかわからないが、曖昧な言葉が好きじゃない。特に、自分で意味が分かっていない言葉を、他人に対して使いたくないと思っている。「自分を大切にして」も「甘えるな」も「頑張れ」も、誰かに言って、その人が良くなった試しがない。だってそんなこと言われても(多分ASDじゃなくたって)何をしたらいいかわからないもんな。そりゃ「自分を大切にして甘えないで頑張る」ことが出来たらいいけど、それって、いったい、何。私は私の言葉をよく他人に発信する。いつも私は、自分の承認欲求や自己実現のために誰かに与えられるものを探している。そのための私の手段として、言葉での発信を選んでいる。思った通りに受け取ってもらえなくたって、それはそれでいい。基本的に他人を変えることは出来ないということを私は知っている。だけど例え誰かに届かなかった言葉でも、また別の人の役には立つこともあるだろうと思う。自分に嘘さえついていなければ。だから、私は自分の中で定義がわからない言葉をあまり使いたくないと思っている。使ってしまうこともある。言葉にするのが難しい気持ちもあるし、見せかけだとわかっていても、何か言葉を掛けたくなるときもある(「見せかける」ことの効果はあると思う。その場での応急処置の有無が救命の可否に関わることもある)。だけど曖昧な言葉は相手にも曖昧にしか届かない。美味しそうな香りだけで実体のない料理が相手の心を打つことはない。あるいは、私たちはよく自分で自分を責めることがあるが、そのときに、自分に対して行う叱責の内容を、受け取る自分のほうは一言一句理解できているだろうか? そうでないならばその自責は、ただ「やった感」を出したいだけの見せかけに過ぎない。誰に対してのパフォーマンスなのかは知らないが、無益なだけでなく有害であり、誰もそんなもの欲しがってなどいない。

コメント

タイトルとURLをコピーしました